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東京地方裁判所 平成8年(合わ)315号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中八〇日を右刑に算入する。

この裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予する。

押収してある包丁一丁(平成八年押第一九四六号の1)を没収する。

理由

(犯罪事実)

被告人は、平成八年九月三日午後一時四〇分ころ、東京都杉並区阿佐谷南〈番地略〉△△荘二階三号室の被告人方で、自室の扉を強く叩く音がしたので扉を開けたところ、覆面姿の乙川太郎(当時二二歳)が立っていたため、後ずさりすると、乙川は被告人の居室内に侵入し、右手に持っていた折り畳み式ナイフの刃先を被告人の腹部付近に突き付け、被告人の知らない者の名前を告げて「知らないか」などと言った。このため、身の危険を感じた被告人は、乙川のナイフを奪い取ろうとしたが、出来なかったので、自室奥にあった包丁(刃体の長さ約一四・五センチメートル、平成八年押第一九四六号の1)を手に持ち、乙川に向き直った。これを見た乙川は、被告人に背を向けて被告人の居室から走って逃げ出したが、被告人は、包丁を持ったまま乙川を追いかけ、△△荘二階の階段踊り場で乙川に追いつくや、乙川が死亡するかもしれないことを認識しながら、あえて、乙川の背部を一回突き刺し、よって、同日午後二時四三分ころ、東京都新宿区西新宿六丁目七番一号東京医科大学病院において、乙川を右肺損傷により失血死するに至らせて殺害したが、被告人の行為は乙川の急迫不正の侵害に対し、自己の生命・身体を防衛するためにやむを得ず行ったもので、防衛の程度を超えたものである。

(証拠)〈省略〉

(争点に対する判断)

一  被告人及び弁護人は、被告人には、殺意はなく、しかも、盗犯等の防止及処分に関する法律一条一項又は刑法三六条一項の正当防衛が成立し無罪である、仮に正当防衛が成立しないとしても、誤想防衛または過剰防衛が成立する旨主張するが、当裁判所は、被告人には殺意があったと認めた上で、被告人の行為は、乙川太郎の急迫不正の侵害に対し、被告人の生命及び身体を防衛するためにしたものであるが、防衛の程度を超えて過剰防衛が成立すると認めた。以下、右のとおり認定をした理由について説明する。

二  関係証拠によると、本件の事実経過は次のとおりと認められる。

1  乙川は、本件の二日前の平成八年九月一日昼ころ、被告人の居室に隣接する△△荘二階五号室の丙野春夫の部屋の前に来て、被告人に、「○○・××・※※はどこに住んでいるか」などと被告人の知らない者の名前を尋ね、被告人が「知らない」などと言うと、そのまま立ち去った。これ以外に、本件当日までに、被告人は、乙川と会ったことはなく、その名前すら知らなかった。

2  被告人は、同月三日の午前中は、ビル清掃の仕事をし、午後零時過ぎころ、昼食と休憩のために自室に戻った。

3  被告人が、四畳半一間の居室のベットでパンツ一枚の姿で休憩していた最中の同日午後一時四〇分ころ、自室の扉を強く叩く音がしたので扉を開けたところ、扉の前に、両手に手袋をはめ、右手に刃渡り約一〇センチメートルの折り畳み式ナイフを持ち、目と口の部分だけを出した覆面姿の乙川が立っていたので、これに驚いた被告人は、後ずさりした。すると、乙川は、被告人の居室内に侵入し、ナイフの刃先を被告人の腹部付近に突き付け、被告人の知らない者の名前を告げて、「知らないか」と被告人に尋ねた。

このため、被告人は、身の危険を感じるとともに、乙川の覆面を剥いで正体を明らかにしようと考え、片手でナイフを奪い、片手で覆面を剥ごうとしたが、ナイフを奪い取ることができなかったため、両手でナイフを奪おうとしてもみ合いになり、このとき、被告人は左手親指に切創を負った。

4  被告人は、乙川の身体を、入口方向に力一杯押しやると、部屋の奥の冷蔵庫の上に置いてあった、普段調理等に使用している包丁(平成八年押第一九四六号の1)を手にして、入口辺りに立っていた乙川に向き直った。

5  すると、乙川は、被告人の居室から逃げ出したが、被告人は、包丁を手にしたまま乙川を追いかけ、自室から約四・五メートル離れた二階の階段踊り場で、被告人に背を向ける体勢で階段を下りようとしていた乙川に追い付くと同時に体を傾けるようにして乙川の背中を包丁で一回突き刺した。

6  乙川は、背中に包丁を刺されたまま、階段を駆け下り、△△荘から逃げ去った。被告人は、乙川に少し遅れて階段を下りて、付近の緑道で乙川を発見し、乙川とともに△△荘まで戻ったが、乙川が「病院に連れて行ってくれ」などと言って、その敷地内に倒れたことから、事件を知って出てきた△△荘の管理人に警察への通報を依頼し、同人が救急車を呼んだ。しかし、救急隊員が到着した時点では、乙川は既に呼吸も脈拍もなく、意識もない状態に陥っており、東京医科大学病院に搬送された後の午後二時四三分に右肺損傷に基づく失血による死亡が確認された。

7  以上の認定に対して、検察官は、乙川が被告人の居室に侵入した時点で、乙川の所持したナイフの刃は、折り畳まれていたと認められると主張するが、被告人は、左手親指に切創を負い、右の傷の位置等から被告人が自身の包丁で自傷したとは認め難く、乙川が被告人の居室から逃げ出し、その後路上で被告人と対面するまでの間に、乙川自身がナイフを折り畳む時間的余裕がなかったともいえないことなどから、被告人の供述するとおり、被害者が、被告人の居室に侵入した時点で、ナイフの刃は、出ていたと認められる。

三  被告人の殺意について

1  本件各証拠によれば、本件犯行に使用された凶器は、刃体の長さが約一四・五センチメートルの刃先が鋭利な包丁であり、被告人は、これを普段から調理等に使用して、その性状を十分認識していたこと、被告人は、乙川の背後の至近距離から、乙川の背中をめがけて一回突き刺し、その結果、包丁は、乙川の背部中央右側第七胸椎の右方から体内に入り、右第八肋骨を損傷した上、右胸内に入って右肺を損傷しており、創は、わずかながら上方に向かい深さ約一二センチメートルに及んでいること、乙川は、出血により受傷の約一時間後に死亡したことが認められる。

被告人は、公判廷において、背中を刺すとの認識はなかったかのような供述をするが、被告人は乙川を追いかけ、被告人に背を向け階段を下りようとしていた乙川にそのまま包丁を突き刺したもので、その刺突の態様、位置関係に加え、被告人の公判供述によっても、背中以外で生命への危険の少ない部位を狙ったことを窺わせる事情はないことなどに照らして、被告人は包丁で乙川の背中を刺すことを認識していたと認められる。

2  右の認定事実によれば、被告人は、その危険性を十分認識していた鋭利な刃物で、重要臓器があり、傷害を与えれば、臓器損傷等により生命に危険の及ぶ部位である背部をめがけ、いきなり手加減することもなく強く突き刺したことが認められる。

これに対し、弁護人は、被告人は手を伸ばして突き刺したのではなく、被告人は走っていたため、その勢いで深く刺さったもので、被告人が乙川を刺した後に手から包丁が離れていることは、被告人が包丁を強く握っていなかったことを示すとして、被告人は強く突き刺してはいないと主張する。しかし、走り寄って体重を預ける形で包丁を刺すこと自体、凶器の危険性を十分に発揮する攻撃方法である上、被告人は、公判廷における供述によっても、手加減したりする意図はなかった旨供述しており、乙川の受傷の程度を併わせ考えれば、強く突き刺したと認められる。また、包丁が被告人の手を離れたのは、乙川が包丁を背中に刺されたまま階段を駆け下りたためか、被告人が乙川を刺した時点で更なる加害意思を失ったためと考えるのが自然であり、直ちに刺突時の被告人の握りが弱かったことにはならない。

3  また、乙川が、被告人の居室に覆面や手袋をして侵入した上、被告人にナイフを突き付けるという行為に及んだために、被告人は、自己の生命・身体に脅威を感じており、このような本件の経緯は、被告人が殺意を持ったとしても何ら不合理ではない。

4  以上からすれば、被告人の刺突行為が一回限りのものであったこと、被告人は、乙川が死ぬかもしれないと考えて△△荘の管理人に警察への通報を頼み、管理人が救急車を呼んでいることなどを考慮しても、被告人に未必の殺意があったことは優に認められる。

四  正当防衛の主張について

1  本件では、乙川が覆面や手袋をして被告人の居室に侵入した上、被告人にナイフを突き付けており、右行為が被告人の生命及び身体に対する急迫不正の侵害または盗犯等の防止及処分に関する法律一条一項にいう「現在ノ危険」に当たることは明らかである。しかし、前記のとおり、被告人が本件行為に及んだのは、被告人の居室から約四・五メートル離れた△△荘二階の階段踊り場であり、また、この時点では、乙川は、既に被告人に対してナイフを突き付けるのを止め、被告人に背を向けていたことが認められ、検察官は、この点を捉えて、被告人は、逃げ出した乙川を追いかけて包丁を突き刺したものであり、右時点においては、乙川が被告人を攻撃するような状況にはなかったのであるから、急迫不正の侵害または「現在ノ危険」は既に消滅していたと主張する。

確かに、乙川が被告人の居室から走り去り、全く振り向かない状態で被告人に背中を刺されていることからすると、乙川は被告人が包丁を手にしたのを見て被告人の居室から逃げ出したものと認められる。

しかし、被告人の居室と階段踊り場の間はわずか約四・五メートルの距離にすぎず、乙川が逃げ出してから被告人が乙川を刺すまでの時間も、せいぜい数秒間である。そして、その直前の乙川の行為は、隣室の住人らが留守の白昼の共同住宅に、覆面、手袋姿で被告人の居室に侵入した上、折り畳み式ナイフの刃先を被告人の腹部付近に突き付け、被告人がナイフを奪い取ろうとしたことに対しても、これに屈せず、被告人ともみ合いになり、その際被告人の手指に傷を負わせたというものであり、被告人の生命、身体への危険性が高度なものであった。また、乙川は、被告人の居室から逃げ出した際も、自己の行為について、被告人に対して、謝罪したり、今後加害する意図がない旨を表明するなどの言動にでたとは認められない上、被告人に向けるのは止めたとはいえ、なおナイフを持ったままであった。そうすると、本件において、乙川が背中を向けて被告人の居室から走って逃げたという一事をもって、直ちに急迫不正の侵害または「現在ノ危険」が消滅したとはいえない。

また、被告人の刺突行為は、右のような短時間での一連の行為としてなされたもので、被告人に危険の排除以外に右行為に及ぶ動機が認められない以上、防衛または危険排除の意思でされたものと認められる。

そして、被告人が刺突行為に及んだ階段の踊り場は、被告人の居室の外ではあるが、居室からわずか約四・五メートル離れているにすぎず、構造上△△荘の一部である上、右階段は△△荘二階の各部屋から外へ出るための唯一の通路であることなどに照らせば、被告人の刺突行為は、盗犯等の防止及処分に関する法律一条一項三号にいう「故ナク人ノ住居」に「侵入シタル者」の「排斥」の行為と認められる。

2  そこで、防衛行為としての相当性についてみるに、被告人の刺突行為の際には、既に乙川は被告人に背を向けて逃げ出し階段を下りようとしていたのであるから、乙川が被告人の居室に侵入してナイフを被告人に突き付けた時点と比べれば、「現在ノ危険」が微弱なものになっており、被害者が振り向いて被告人を刺突するほどの強度の危険はなかったものと認められる。しかも、被告人は、乙川が、被告人の方を振り向くこともなく走り去ろうとしていることを認識していたもので、右のような強度の危険のないことを分かりながら、被害者の背中という身体の枢要部を包丁で強く突き刺したことが認められ、右危険の程度に照らし、被告人の刺突行為は防衛行為としての相当性を欠いていたと言わざるをえない。

結局、被告人の行為は、防衛行為の相当性を欠き、盗犯等の防止及処分に関する法律一条一項の正当防衛の適用はなく、刑法三六条二項の過剰防衛が成立するに留まる。

3  弁護人は、被告人の行為が防衛行為の相当性を欠いたとしても、被告人は、乙川が再度攻撃してくるかも知れず、自らの生命を侵害しかねないと認識して行為したものであるから、相当性の錯誤による誤想防衛が成立し、責任が阻却される旨主張する。

しかし、被告人は、包丁を手にして乙川に向き直ったところ、乙川が被告人の居室から走りだし、被告人が追いつくまでの間も、振り向くこともなく背中を見せ、さらに、被告人に背を向ける体勢で階段を下りようとしていたことなど、乙川が無防備な体勢で逃げようとしていることを正確に認識しており、乙川の行動等について何らかの事実を誤認していたとは認められない。そうすると、被告人の驚がくや恐怖心、乙川がナイフを持っていたなどの事情を考慮しても、被告人としては、当初の生命等への強度の危険が減少していたことを認識していたと認めるのが相当であり、刺突の時点で、乙川からの再度の攻撃を認識していたとは認められない。したがって、被告人に何ら錯誤はなく、誤想防衛により責任が阻却される余地はない。

五  以上のとおり、被告人には未必の殺意による殺人罪の成立が認められ、かつ、過剰防衛の成立が認められる。

(法令の適用)

一  罰条 刑法一九九条

二  刑種の選択 有期懲役刑を選択

三  未決勾留日数の算入 刑法二一条

四  刑の執行猶予 刑法二五条一項

五  没収 刑法一九条一項二号、二項本文

六  訴訟費用の不負担 刑事訴訟法一八一条一項ただし書

(量刑の理由)

被告人は、自己の生命及び身体を防衛するためとはいえ、刃体の長さ約一四・五センチメートルの包丁で、防衛の程度を超えて、被告人に対して背を向けている被害者の背部を強く突き刺し、この一撃で被害者を受傷後短時間のうちに死亡させており、犯行の態様は危険なもので、結果ももとより重大である。被告人は、被害者の遺族に対して慰藉の措置を取ろうとしたことはなく、被害者の家族に申し訳ない気持ちはあるとは述べるものの、自己の行為の正当性のみを主張し、自分は被害者の死に責任を負わないなどと供述し、自己の行動を謙虚に省みる態度に欠けているといわざるをえない。このようにみると、被告人の刑事責任には重いものがある。

しかし、他方、本件犯行は、被告人の自室に、突然、覆面、手袋姿の被害者がナイフを携帯して侵入した上、被告人にナイフを突き付けるなどの理不尽な行為に及んだことに起因して、この被害者の急迫不正の侵害に対する防衛行為として行われたものであるから、被害者には重大な落ち度があったと認められる。被害者からナイフを突き付けられたことによる被告人の恐怖感、驚がく、興奮等が大きかったであろうことは、容易に推認でき、犯行が、被害者の侵入からわずか約二〇秒間以内に、被告人の自室と近接した階段踊り場でなされたことからすれば、被告人が被害者への対応に冷静さを欠いたことを強く非難するのは、酷にすぎる感があることは否めない。また、刺突行為は、一回にすぎず、犯行態様に執拗さはない。加えて、被告人は、本件犯行前は、真面目に稼働し、平素の生活態度にも格別問題がないなどの酌むべき事情もある。

右の諸事情を考慮すれば、本件結果の重大性等を考慮してもなお、被告人に対しては、その刑の執行を猶予するのが相当と判断した。

(裁判長裁判官 村上博信 裁判官 大圖玲子 裁判官 岩崎邦生)

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